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第24回 トンネルを抜けた先

 やはりここ数年の学生生活とコロナは切っても切り離せない。事実、ここ2年間の教えて!アンバサダーの記事で、コロナの文字が出てこない記事はほとんど無いし、私たちを取り巻く環境に大きな変化が起こっていることを痛感する。

 多方面でコロナ「禍」という単語を耳にするが、禍はいつの時代でも起こりうる。慶應医学部の歴史は100年以上も前に遡るが、この長い歴史の中で多くの「禍」を経験し、そしてそれを乗り越えてきた歴史がある。今回の記事では、その中から3つご紹介しよう。


 始めに1923年、関東大震災が起こった年である。実はこの年は慶應医学部1回生の卒業の年である。1回生の中には震災で命を落とした学生もいたという。また1回生であるため先輩からの資料やアドバイスもなく、大変に苦労したそうだが、1回生は全員卒業試験を突破したという。当時の教科書は日本語のものがほとんどなく、ドイツ語で学ばなければならなかったというのだから、その努力たるや想像を絶する。

 次に、終戦間際の1945年5月、戦況が悪化するなかで一部の学部生は疎開を余儀なくされた。山形県や埼玉県、東京南多摩などいくつかの疎開先に分かれたが、疎開先に教員が派遣され、そこで慶應の医学生の教育が行われた。食糧難や交通状況の悪化など、非常に困難な状況ではあったが、疎開先での教育は教員と学生が一体となり、非常に有意義なものになったという記録が残っている。

 最後にもう1つ。日米安全保障条約に反対する運動、いわゆる安保闘争に端を発して、戦後の日本は学生も巻き込んだ大きな混乱期を迎えることになる。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示で始まったインターン制度への反対運動をきっかけとした医学部ストライキの発生や、その後の改革運動の中で学生生活や医学部教育が滞る場面も多くあった。この混乱の時代は6年近くも続いたが、慶應の学生の医師国家試験合格率が低下することはなく、混乱の中にあっても私たちの先輩方は日々研鑽を積んでいたことが窺える。


 今回のコロナによる私たち学生への影響はどうであろうか。部活ができない、大人数で会食ができない、などさまざまな制約があったとは思うが、個人的には悪いことばかりではないようにも思える。今回の記事で取り上げた私たちの先輩方も、困難の中にあっても創意工夫を凝らし、苦しい状況を打開されてきたように感じる。

 いつか私たちの後輩も、私たちの活動を「禍」を乗り越えた歴史として取り上げてくれる日が来るかもしれない。(四年 小林博也)

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