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岡野 栄之  先生
​(おかの ひでゆき
)
昭和58 (1983) 年 3月 慶應義塾大学医学部卒業
昭和58 (1983) 年 4月 慶應義塾大学医学部生理学教室(塚田裕三教授)助手
昭和60 (1985) 年 8月 大阪大学蛋白質研究所(御子柴克彦教授)助手
平成元 (1989) 年10月 米国ジョンス・ホプキンス大学医学部生物化学教室研究員
平成 4 (1992) 年 4月  東京大学医科学研究所化学研究部(御子柴克彦教授)助手
平成 6 (1994) 年 9月  筑波大学基礎医学系分子神経生物学教授
平成 9 (1997) 年 4月  大阪大学医学部神経機能解剖学研究部教授
(平成11(1999)年4月より大学院重点化に伴い大阪大学大学院医学系研究科教授)
平成13 (2001) 年 4月 慶應義塾大学医学部生理学教室教授〜現在に至る
平成15 (2003) 年より   21世紀COEプログラム「幹細胞医学と免疫学の基礎-臨床一体型拠点」拠点リーダー
平成19 (2007) 年10月 慶應義塾大学大学院医学研究科委員長
平成20 (2008) 年 7月  グローバルCOEプログラム「幹細胞医学のための教育研究拠点」(医学  系、慶應義塾大学)拠点リーダー
平成20 (2008) 年       オーストラリア・Queensland大学客員教授〜現在に至る
平成22 (2010) 年 3月 内閣府・最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム)
「心を生み出す神経基盤の遺伝学的解析の戦略的展開」・中心研究者 (〜平成26年3月まで)
平成25(2013)年4月  JST・再生医療実現拠点ネットワークプログラム(拠点A)
「iPS細胞由来神経前駆細胞を用いた脊髄損傷・脳梗塞の再生医療」・拠点長
平成26 (2014) 年 6月 文部科学省・革新的技術による脳機能ネットワーク全容解明プロジェクト(中核機関・理化学研究所)・代表研究者
平成27 (2015) 年 4月 慶應義塾大学医学部長(~平成29年9月)
平成29 (2017) 年10月 慶應義塾大学大学院医学研究科委員長
平成29 (2017) 年10月 国立大学法人お茶の水女子大学学長特別招聘教授(~現在に至る)
平成29 (2017) 年10月 北京大学医学部客員教授(~現在に至る)

​「生命とは何か」(シュレディンガー)との出会い

 

ーまずは先生が医学部を目指された理由をお聞かせください。

 私は高校生の頃は理論物理学を勉強したいと思っていたのですが、当時の慶應義塾大学には純粋に理論物理学を先行できる学部がなくて、進路に大変迷っていました。そんな折に医学部の学部説明会に参加したのですが、そこで医学部に行っても勤務医や開業医になるだけではなくて、研究をするという人たちがいることを知り、医学部に興味を持ちました。さらにちょうどその頃に、原著が出たのは第二次世界大戦中ではあるのですが、シュレディンガーの「生命とは何か」という本が岩波新書から翻訳版が出て、内容は非常に難しかったのですが、高名な物理学者が生命科学を目指しているということが非常に興味深く、生命科学を研究できる医学部も面白そうだなあと考えたのがきっかけでした。

 

ー「生命とは何か」という本が、先生が医学部を目指されるきっかけとなられたとのことですが、具体的にどのような内容に興味を覚えられたのでしょうか?

シュレディンガーは量子力学者ですから、非常に物理学者らしい考察の仕方をしていて、当時は遺伝子の実態がDNAであることは分かっていませんでしたし、ましてや二重螺旋構造を取っていることも分かっていませんでしたから、非常にわかりづらく謎めいた内容でした。そういうところに逆に惹かれたのかもしれません。

しかし思い返せば、その後シュレディンガーの言説が分子生物学として台頭し、40年前の医学研究が大きく前進するきっかけとなったのだと思います。当時はまだ「エクソンとイントロンというものがあるらしい」といった時代でしたから(笑)

 

ーそう考えるとこの40年間での医学の進歩は凄まじいものだったのですね。その中で先生が神経の分野を研究の対象として選ばれた経緯をお聞かせ頂けますか。

 私が医学部での研究で最初に興味を持ったのは癌の研究でした。と言いますのも私が学部4年生の時に母親が癌で亡くなり、医学の無力感を非常に感じました。そして分子生物学にも興味がありましたので、分子生物学的な手法で癌を極めたいと思い、当時の微生物学教室の高野利也先生(1974~ 慶應義塾大学医学部教授)のもとで癌遺伝子の研究を始めました。ところが当時癌遺伝子について分かっていることはほとんどなく、癌遺伝子は学部生が片手間にやって見つかるものでもありませんでした。そうこうしているうちに海外の研究グループが癌遺伝子の論文をどんどん出し始めて、この分野では勝てそうにないと絶望を感じたのを覚えています。そんな折に生理学教室の先輩である御子柴克彦先生が声をかけてくださって、神経の研究に誘われました。ちょうど私の父親の知り合いに脊髄損傷の方がいらっしゃって、その方にもぜひ神経の研究をやってくれと言われたのも、きっかけかもしれません。当時は神経系で解明されている遺伝子はほとんどなくて、神経の発生を研究している人もほとんどいませんでした。今の言葉で言えばBlue oceanだったのだと思います。

やはり癌をやるか神経をやるかは非常に迷いましたが、当時国立がん研究センターの所長を務められていた杉村隆先生という方にアポなしで訪ねて行って、そしたら奇跡的に学生の私に会ってくださって、「私は今まで人がやらないことをやってきた。君も頑張りなさいよ。」と言葉をかけてくださったんです。じゃあ他に誰もやっていない神経をやろうと、神経は再生しないと誰もが思っていたけど、それを再生させてやろうと、とにかく人がやらないことをやろうというマインドになりました。今でもその気持ちは変わらず、神経の中で一番難しい筋萎縮性側索硬化症(ALS)をやろうと、とにかくそういう風にしてやってきたつもりです。

厳しい環境に身を置くことで感覚が研ぎ澄まされる

 

ーアメリカの話が出たということで、留学の際に刺激を受けたエピソードなど教えて頂きたいです。

 留学することは、研究者としてすごく成長できる機会だと思います。この研究がうまくいかないと論文が出ない、論文が出ないと仕事が取れない、という薄氷を踏む思いですが、このような厳しい修行・競争にさらされるというのが留学する良さだと思います。日本にいるとこのプレッシャーは経験できないのではないでしょうか。

 

ただ、ずっと研究ばかりするわけでもなく、当時は天谷先生などと共に、週末はテニス・飲み会・BBQなどもしていました。そこで知り合った他大学の人と、今学会で一緒に理事をやったり、などと、結局つながりは大事だと感じます。日本人に限らず、色々な人脈を作っていくことはかけがえのない経験で、日本にいたら絶対できない経験を得られると思います。

 

ー厳しい環境下でまさに「試される」ことの連続だったかと思いますが、研究として成果を出していく過程で、どのように研究者としての感覚を研ぎ澄ませていかれたのでしょうか?

 プラクティスと勘ですね。最初、このプロジェクトがうまくいくかどうかは、最低でも半年くらいやってみないとわからないです。以前やっていたショウジョウバエの変異体スクリーニングの研究で、8000系統を扱うものがあって。来る日も来る日もネガティブが続くと、難しいかなあとも思ったりしますが、粘って3ヶ月くらい経過したある時、Musashi遺伝子とかが取れ始めました。勘をよくするためには、とにかく色々と考えなければいけないと思います。自分の実験が失敗していて結果が上手くいっていないのか、実験は絶対うまくいっているのか、こういった見極めは大切です。単に実験を失敗しているのであれば、練習あるのみです。

 

ー話は変わりますが、医学部生時代の友人や先輩・後輩関係で、今に活きる関係は多いでしょうか。

いまだにバレー部部長をやっていますし、去年訪れたボストンでも、研究・臨床問わずバレー部の後輩とも会ったりと、関係は長く続いています。どうしてもくじけそうになった時、大事なのはこういった友人との繋がりだと思います。相談できる相手とか。

 

こういった繋がりで言えば、弟子を育てることは大切です。かれこれ色々な大学に30人くらい教授を作ってきたと思います。やっぱり弟子が30人教授になると、彼らも成長して助けてくれたり、やはり人間関係はすごく大切だなと思います。

 

ー今と当時の医学部の雰囲気を比べて、どういうところが違いますか?

 昔と比べて多様性は上がったと思います。例えば、昔よりは研究室で研究する人が増えてきました。臨床だけでなく、色々な可能性があると思います。

​留学は苦労の連続

 

先生が「ここから多くの経験を得た」と感じる出来事はどのようなことでしょうか?

 やはり留学でしょうか。当時は大阪大のタンパク研究所で助手をしていたので必ず2年で帰らないといけなかったのですが、そのために論文の途中で帰国してしまいました。留学先のボスも他の研究者を持ち上げないといけませんから、最後の詰めのところは他の人に譲らないといけなくて。そこは結構痛かったですね。でもそれを取り戻すために精進しました。

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​Blue Oceanを求め続けた若手時代

 

ー今後、慶應医学部生はどのような姿を目指していくべきでしょうか?

 国立ではなく私学としての特徴を出して、もうちょっとハングリーになっても良いのではないかと思います。成長期にある人間が保守的になってどうする、というところです。

 

ーハングリーに挑戦を続けると、ネガティブが続くこともあると思いますが、前に進み続けるモチベーションはどのように保てば良いでしょうか?

 自分が何をやりたいかをはっきりさせるのが大切です。私も研究テーマはすごく悩みました。どのような立場にいたいか、よりも何をやりたいかが大事で、あとはそのために、最適な環境を自分で選んでいく、ということだと思います。大義を持って取り組んでいくことが重要なのではないでしょうか。

 

ーその時期が一番苦労されたのですね。

 そうですね。それから人脈形成でも苦労しました。神経系や哺乳類の発生など、再生に繋がる分野で重鎮になっている方々は、名門学校出身者ばかりなんですよ。そこに哺乳類や神経発生ではなくショウジョウバエしかやってこなかった私が入るとなると…ほとんど新参者でしたから。神経発生と神経再生の大御所のもとに少しでも顔を出してればよかったと思いますね。自分の経験から、2か所くらいはとにかく留学した方がいいと思いますよ。

 

ーそれは基礎に限らず、臨床もでしょうか?

 そうですね。臨床では、同じところに医局から入れかわり立ちかわり送ることが多いですけど、それでは本人の個性が全く発揮できませんからね。それはそれで行って、もう1か所くらい自分のやりたいことをしに行くとかね。そうしないと自分の持ち味というものは出せないのではないでしょうか。

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学生へのメッセージ

 

最後に若手の研究者や医学部生に、何かメッセージをいただけますでしょうか。

いつも授業で言っていることですが、とにかく福沢諭吉の述べた『贈医』。

   無限の輸贏(しゅえい) 天また人

   医師 道(い)うを休(や)めよ 自然の臣(しん)なりと

   離婁(りろう)の明視(めいし)と麻姑(まこ)の手と

   手段の達するの辺(へん)唯(た)だ是(こ)れ真(しん)なり

 

これはすごく大事な言葉ですね。いつの時代でも不治の病や難治性の病気はありますが、とにかく諦めずに闘ってください。おそらく50年後には疾病構造は変わって、突然降ってわいたように新しい疾患が現れるかもしれませんが、そこで医師が諦めてしまったらどうにもならないじゃないですか。やはり全知全能を振り絞って戦ってほしいと思いますね。それはどの時代になっても同じ姿勢だと思いますよ。疾病構造が変わるから、若い人は新しいことを勉強してください。

岡野栄之 先生(おかの ひでゆき)

 

昭和49 (1974) 年 3月 東京都世田谷区立山崎中学校卒業
昭和52 (1977) 年 3月 慶應義塾志木高等学校卒業
昭和52 (1977) 年 4月 慶應義塾大学医学部入学
昭和58 (1983) 年 3月 慶應義塾大学医学部卒業
昭和58 (1983) 年 4月 慶應義塾大学医学部生理学教室(塚田裕三教授)助手
昭和60 (1985) 年 8月 大阪大学蛋白質研究所(御子柴克彦教授)助手
平成元 (1989) 年10月 米国ジョンス・ホプキンス大学医学部生物化学教室研究員
平成 4 (1992) 年 4月  東京大学医科学研究所化学研究部(御子柴克彦教授)助手
平成 6 (1994) 年 9月  筑波大学基礎医学系分子神経生物学教授
平成 9 (1997) 年 4月  大阪大学医学部神経機能解剖学研究部教授
(平成11(1999)年4月より大学院重点化に伴い大阪大学大学院医学系研究科教授)
平成13 (2001) 年 4月 慶應義塾大学医学部生理学教室教授〜現在に至る
平成15 (2003) 年より   21世紀COEプログラム「幹細胞医学と免疫学の基礎-臨床一体型拠点」拠点リーダー
平成19 (2007) 年10月 慶應義塾大学大学院医学研究科委員長
平成20 (2008) 年 7月  グローバルCOEプログラム「幹細胞医学のための教育研究拠点」(医学系、慶應義塾大学)拠点リーダー
平成20 (2008) 年       オーストラリア・Queensland大学客員教授〜現在に至る
平成22 (2010) 年 3月 内閣府・最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム)
「心を生み出す神経基盤の遺伝学的解析の戦略的展開」・中心研究者 (〜平成26年3月まで)
平成25(2013)年4月  JST・再生医療実現拠点ネットワークプログラム(拠点A)
「iPS細胞由来神経前駆細胞を用いた脊髄損傷・脳梗塞の再生医療」・拠点長
平成26 (2014) 年 6月 文部科学省・革新的技術による脳機能ネットワーク全容解明プロジェクト(中核機関・理化学研究所)・代表研究者
平成27 (2015) 年 4月 慶應義塾大学医学部長(~平成29年9月)
平成29 (2017) 年10月 慶應義塾大学大学院医学研究科委員長

平成29 (2017) 年10月 国立大学法人お茶の水女子大学学長特別招聘教授(~現在に至る)
平成29 (2017) 年10月 北京大学医学部客員教授(~現在に至る)

※所属・職名等は取材時のものです。

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