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堀 周太郎  先生
​(
ほり しゅうたろう)

 
2006年 慶應義塾大学医学部卒業

初期臨床研修後、外科学教室に入局。

国立がん研究センター中央病院での研修(外科レジデント、肝胆膵外科チーフレジデント、リサーチレジデント)を経て外科学教室へ帰局。

2017年 永寿総合病院へ出向、2018年より慶應義塾大学外科学教室(一般・消化器)・医学教育統括センター助教。

※所属・職名等は取材時のものです。

​理工学部志望から医師を志すまで​

 

ー先生が医師を目指された理由について教えてください。

 私は慶應の志木高から内部進学で医学部に入学しました。両親が共に医師だったので、医師という職業に親しみはありましたが、実は高校3年生の2学期までは医師になるつもりはありませんでした。当時は「日本のビル・ゲイツになること」が夢で,理工学部で光ファイバーの研究をしたいと考えていました。しかし学部見学に行った際に,当時の理工学部の環境では,自分が思い描いていたことができないと感じました。(資金面の問題もありましたし、設備面の問題もありました。)私のビジョンは一日にして変更を迫られることになったのです。そんな中、「(成績的に)お前医学部に行けるよ」と言われ、医学部には内部からも外部からもすごい人が集まる印象があったので、自分が何をしても敵わないような優秀な人々に囲まれて過ごしてみるのも悪くないかなと思いました。これが医学部を目指した理由です。入ってみると医学は面白く、不思議と理工学部に行けばよかったと後悔したことは一度もありません。

 我々が学ぶ医学という分野は、まだまだ不確実な科学であると言われています。医学の知識は日進月歩で、昨日まで正しいと思っていた情報が、実は間違っていたという報告が出ることもあるのです。その不確定性の中でどうサイエンスを貫くか、どうサイエンスを道具として使うか、そこが醍醐味だと思います。少し理工学にも通じますよね。だから,理工学部に対する未練は「あるような、ないような」。でも医学部に来たのは必然だったのかもと今では思っています。

部活中心の学生時代

​医学部生に勧める過ごし方とは

 

ー医学部時代は剣道部だと伺っています。その時の経験について教えてください。

 小中高とずっと剣道部でした。中学(慶應中等部)の体育の先生が師匠で、大学ではオタクのように没頭して練習していました。大学時代は週3回の部活動に加えてさらに週3回道場に通っていたので、合計週6回やっていました。最終的には専用の道具で竹刀に手を加えて自分好みにしたりもしていました。剣道は武術ということもあって、「芸」という要素も強いです。自分が求めていた剣道は、強さだけではなく芸事としても美しい剣道であったように思います。

 部内では自分はかなりの暴君だったようです(笑)仲間に自分と同じような熱意を強要していたことは反省しています。ただ、部活動の中で、剣道を通じて自分を表現することを追い求め、満足いくまでそれを行えた環境と仲間には感謝しています。

 実は新聞部にも入っていました。寄生虫学教室の故・竹内教授と、剣道部の先輩である整形外科の辻収彦先生に誘われて、剣道部員が何人かまとまって入部しました。その時の活動で関連病院の訪問・学内の教室訪問を記事にすることを始めました。これが特に印象に残りましたね。学生の目線で編集していきました。他にも、大学2年生までは、留学生の国際交流団体で学生のボランティアチーフもやっていました。

 

ー先生は学生担当として私たち学生の教育にも携わってくださっていますよね。後輩たちへの医学部生活のアドバイスを伺いたいです。先生が医学部時代にやっておけばよかったと思うこと、やったほうがいいと思うことはありますか。

 ないです。というのも、どういうことをやっていてもいいと思うからです。しかし、自分が何をやっているのか認識することはとても大事です。気付いたら一日が終わっている,というのはもったいないですよね。「今日はこれをする」と決めて、それをやったならあとはなんでもいいと思います。休むのも、のんびりするのも、勉強するのも。

 「随所に主となれ(どんなところでも主体的であろうとすること)」という言葉があります。スキーで山から滑り降りてくる時,かかと重心だとコントロールできずに怖いですよね。しかし、つま先重心にすると方向をコントロールできます。ただ板と重力に身を任せるのではなく、どうやったら上手く滑ることができるか考えて取り組むことが、上達への近道です。スキーの話はあくまでも一例ですが、「自分が今何をしようとしているのか」意識しながら、それに合った行動をやるだけで、一日の見え方、人生の見通しが全然違うのではないかと思います。

 

ー研究はやっていましたか?

 大学時代は研究室に配属されたので研究にも少し携わりました。研究が終わってから8年くらい経ったとき、自分の研究成果が他の研究に組み込まれたことを知り、「自分のやっていたことは無駄ではなかった」という感覚を持つことができました。純粋に楽しかったですし、研究技術を教わったことも後に活きたと思います。

一般消化器外科へ

​ーやりたいことは早いうちから口に出せー

 

ー先生が一般消化器外科を志望した理由を教えてください。

 実は、学生のときは外科医には一番なりたくなかったです(笑)。4、5年生の臨床実習では、一番苦手な科が外科だったんですよね。でも2人の先生に影響を受けました。

 1人目は一般・消化器外科の臨床実習で出会った田邉 稔先生(現・東京医科歯科大学肝胆膵外科教授)です。田邉先生に「やりたいことはなんなんだ?」と聞かれ考え込んでいると、「やりたいことは早いうちから口に出せ。」と言われました。この考え方に衝撃を受けたんですよ。当時の私は、母が癌を患った影響から癌治療を志しており、また糖尿病に対する興味から膵臓という臓器に興味がありました。なので膵臓にできた癌=膵癌について、その予後が悪いことも含めて興味があり、膵癌を専門とし、治療や予後を根本から変えていきたいと思っていました。今から考えればだいぶ曖昧なビジョンでしたが、その先生の言葉から「やりたいことは言っていいんだな」と勇気付けられました。

 2人目は初期研修で出会った先生です。慶應病院と関連病院のたすき掛け(初期臨床研修プログラムB)で初期臨床研修を行ったのですが、初期臨床研修医1年目に研修した足利赤十字病院で、前田大先生という外科の先生に出会いました。この先生は手術の腕がすごいだけでなく、人間性にも秀でた先生でした。患者さんに正面から向き合う先生で、絶対に最後まで患者さんから逃げないで向き合う、そんな先生です。患者さんが楽にしてほしいと言ってきた時は、それすらも真正面から向き合っていました。また、知らないことは正直に知らないと言うそんな姿勢に惹かれ、こういう先生になりたい、と思うようになりました。あれは自分の医師人生の半分を決める出会いだったと思っています。当時は歩き方まで真似をしていました。

 その後慶應に戻ってきてから、膵癌を専門にしたい、と改めて思うようになりました。「患者さんの膵癌に対してどれだけのことをやったのか」を実感できるのは外科なのではないかと思い、外科に気持ちが傾き始めました。でも自信がなかったので、学会に行った際に剣道部の先輩にお会いし相談したところ「向こう50年は外科だね」と言われ、外科に決定しました。入局時に「膵癌をやるために外科に入局します!」と宣言し、そこから肝胆膵一筋です。

 

ーここからは実際に先生が医師になってからのお話を伺いたいと思います。外科の研修はとても忙しく大変だと聞きます。肝胆膵外科がんのチーフレジデントとして過ごしたがん研での印象に残るエピソードなどはありますか。

 まず、外科医になった時から、がんセンターでの研鑽はキャリアの中の外せないピースとして考えていました。膵癌の患者数が増えていく中で、自分は患者数が集まるハイボリュームセンターで仕事をする、もしくはハイボリュームセンターを作ることに従事したかったからです。たくさんの症例を積むには、そのノウハウを学ぶ必要があるため、当時そのノウハウをもっている唯一の病院、国立がん研究センターにいきたいと思っていました。そうしたら外科に入局した2年後にご縁があり、派遣される機会に恵まれました。

 キャリアを前倒しにできてよかったのですが、当時史上最年少でのがんセンター修練となりました。同じ時期に行った人は自分より1個上の人が一番近くて、他は医師8〜10年目でした。そのため、経験症例が一切ない状態で、当初は「大変なところに来てしまった」と思いました。

 しかし、働いていくうちに年齢は関係ないと思えるようになりました。年齢は違えど、国立がん研究センターでは、医師は対等でフランクな関係だったからです。私がチーフレジデントになった時も、自分より年上の方が自分の下に着くようなことがありました。自分の目標に向かって進む中で、どうキャリアを作っていくかが大事なのであり、「〇〇を〇〇歳でするなんて早い・遅い」というような考え方はなくなりました。

 続いてわかったことは、慶應という環境の特殊性です。慶應の中では良くも悪くも同族意識が強いです。そのため、比較的ストレスフリーでした。一方、がん研は完全実力主義で、ミスをすると引き摺り落とされるような世界でした。カンファレンスで、私が発表していると、一緒に考えた治療計画なのに、同じチームのメンバーから批判がきたりするんです。お互い容赦がない環境で刺激的な毎日でした。医療や自分のスタンスは変わりませんでしたが、変わらない中でも、なあなあにしないことを身につけました。変わった環境の中でも、自分を持って自分のままであり続けられたのが一番の財産でした。

 

ー外科医になると、一般的には「年中たくさんの手術をする医師」という単一のイメージがあるかと思います。外科医になった後に、人生のキャリアとしては実際にはどういった選択肢があるのでしょうか。

 外科医は多様です。選ぶ臓器によって、扱う疾患や手術が異なります。そうすると大変さの要素が変わってきます。例えば肝胆膵外科は手術時間が長いですし、術後管理も大変ですが、抗がん剤などのレジメンは少なくシンプルです。一方、乳腺外科でしたら、手術前後の抗がん剤などの豊富な知識が重要ですし、生存率が良いので長期的に患者さんに寄り添うことになります。なので、同じ「外科医」と言っても千差万別です。

 

ー外科医は大変多忙だと聞きます。実際,どうでしょうか。

 忙しいですが、その中で体力だけでなく気持ちのリセットを大事にしています。家に帰ってきて子供と遊んでいる時は、体力的には休めていないかもしれませんが、リフレッシュにはなっているんです。このように私生活で気持ちをリセットすることで、病院では気持ちを引き締めることができると考えています。弓は引かなければいけないけれど、突っ張ったままでは打てません。一度緩めることで打てるようになります。体と気持ちどちらも頑張る時と、弓を緩めてリフレッシュする時との切り替えを意識しています。

 また、労働改革が行われています。今は、国が決めた労働時間の上限の中、いかに今までの医療を維持していくかを試行錯誤している過渡期です。体力勝負にしないように、心技体のバランスを取れる医療体制をどう構築するかを考えている最中です。“働きやすく、体にも優しい外科”を作り上げていくのです。そのため、今見ている外科と5−10年後の外科は変わってくるのではないでしょうか。

 

ー今までで一番大変だった手術はどんなものでしたか。

 印象に残っているのは、自分がチーフのときに担当した肝門部胆管癌です。ご高齢の患者さんで、手術の2ヶ月前から手術以外の治療も行っているような人でした。その方の手術は長時間に渡りましたが、その中で繋いだ動脈の血液がすぐ流れなくなる事態が起こりました。何回繋ぎ直しても、すぐに血流が途絶えてしまうんです。この時、すでに日付を超えており、周囲が重い空気になっていました。しかし、術者の先生がふと血管を撫でたと思ったら血流が戻るようになり、20時間を超える手術を乗り切ることができました。誰もがもう無理かも、と思う中でふとしたことにより事態が好転したんです。諦めないのが重要だということを身をもって実感した手術でした。

これからのVision

 

ー最後になりますが、これから目指しているものやこれからのビジョンがあれば教えてください。

 私には2つのビジョンがあります。

 1つ目は自分自身の成長です。患者さんを治したいと思って医師になったので、自己研鑽はこれからも続けていきたいです。

 2つ目は医学生の教育です。医学生の教育は外科の医局での教育とは違います。それは、医学生100人に教えてもほとんどの学生は外科にならないからです。しかし、どの科に行っても外科には全員関わるでしょう。なので、医学部での外科教育は、“外科医になるための教育”ではなく“外科を理解してサポートできる医師になるための教育”を目指しています。そのためには、どのような教育が効率的で、何をすれば医療者になったときによかったと思ってもらえるかを考えつつ、教育環境作りをしています。このビジョンを、慶應だけではなく広く応用可能なメソッドにまで昇華させることができたら成功だと思っています。

 外科医として成長し(臨床)、教育人としてのメソッドを残し(教育)、教育のhow toをリサーチに残していく(研究)のを継続していきたいです。まさに大学病院に求められる欲張りな医師像ですよね。ここに、プライベートを合わせてバランスよく、主体的に進んでいきたいと思います。

堀 周太郎  先生(ほり しゅうたろう)

 

2006年 慶應義塾大学医学部卒業

初期臨床研修後、外科学教室に入局。

国立がん研究センター中央病院での研修(外科レジデント、

肝胆膵外科チーフレジデント、リサーチレジデント)を経て外科学教室へ帰局。

2017年 永寿総合病院へ出向、2018年より慶應義塾大学外科学教室(一般・消化器)・医学教育統括センター助教。

※所属・職名等は取材時のものです。

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