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第10回 予防医学校舎の秘密


 予防医学校舎は1号館の前の道路を抜けた突き当りに佇む一棟の校舎である。総合医科学研究棟や1号館など比較的新しい建造物に囲まれながら、他とは違う存在感を見せつける。私が学部3年生の頃、統計の授業で初めてあの重い扉に手をかけた時、現代とは思えない異世界に入るように感じたことは今でも覚えている。


 この校舎が建築されたのは、1929年(昭和4年)と歴史は古く、1920年に発足した国内で最も古いとされる寄生虫学教室を収容している。隣に佇む北里記念医学図書館は5年後の1934年に建築されたものであり、信濃町キャンパスにおいて現存する鉄筋コンクリート造りの建物の中で、この予防医学校舎が最も古いものとなっている。現在この建物には衛生学公衆衛生学教室、感染症学教室、医療政策・管理学教室などの教室が入っており、今でも学生の授業場所や研究室として使用されている。そんな歴史ある建物をよく観察すると、玄関両側のアプローチ部分に戦時中の痕跡を見つけることができる。六角形の焼夷弾の跡である。1945年5月24日未明に受けた空襲により、医学部と病院を有する信濃町キャンパスは約1万5千余坪のうち9300坪を失った。当時、木造建築物が多かったために病院の主要部分は焼失したが、鉄筋コンクリート造りであったこの予防医学校舎、北里記念医学図書館、そして現在3号館となっている当時の別館は焼失することなく乗り越えたのである。


 このような背景を知った後で玄関のあの重い扉に手をかけると、扉はさらに重く感じるだろう。空襲の夜空を色濃く物語る予防医学校舎と焼夷弾の跡は、後世に伝えるべき歴史の跡である。空襲を受けた当時の医師の様子や看護師の様子は三田評論の2014年2月号に掲載されており、より詳しく当時の様子を学ぶことができる。すっかり綺麗な建物での信濃町キャンパス生活に慣れつつある今、予防医学校舎に入るときはふと立ち止まって焼夷弾の跡を探し、過去の歴史を感じながら踏み入れてみてはいかがだろうか。

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