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中村雅也 先生

​後編
慶應義塾大学医学部整形外科教室・教授

慶應義塾大学病院・臨床研究推進センター・

再生医療等推進委員会委員長

日本で無理なら、世界に目を向けよ

ー「日本にいたんじゃ治せないと判断し、再生医療の研究をしている海外の大学を探し当て、手紙を書き、面接を受けに渡米しました。ツテも何も全くなかった」と語っておられましたが、当時日本では再生医療はやっていなかったのでしょうか?

 僕は脊髄の研究をやろうと思って整形外科に入局したけれど、その当時の整形外科の研究室では脊髄の研究はできなかったので、何にもないところから始めました。他の大学の基礎の先生や、当時の東大医科学研究所にいた同級生の宮脇先生のところに行って基礎的な手法を教えてもらったり、その時の慶應の整形外科になかったものを、自分から外に取りに行ったりする感じだったね。それでも脊髄再生の研究はできませんでした。脊髄損傷が起きたら何が起きているのかという病態の研究しかできなかったから、国内でやるのは限界があると思って留学を決めました。その当時、どういう研究をしたらいいか分からず論文を読みまくった。研究を始めようと思ったら、これまでの歴史とその時代の流れを理解することはとても大事で、過去20年間くらいの論文を読み漁った。それで当時の僕の心に刺さったのは幹細胞生物学でした。90年代中盤頃から爆発的に進歩していて、神経幹細胞が見つかったばっかりで、まだ混沌としていた。でも僕はこれだと思って飛び込んで行ったという感じかな。先輩たちに相談したら、整形外科医がそんな結果の出ない不毛な研究をしてどうするんだ、時間を無駄にするだけだぞ、と何人もの先生に止められました。

ー渡米するにあたって一人でやられて特に大変だったことはありますか?

​ 僕は結構positive thinkingだし明るいほうだけど、留学の最初は厳しかったね。留学の年がちょうど長女が小学校に入学する年でした。入学後1年在籍しないと帰国したときに学年が落ちると言われたので、冬のワシントンDCに単身で行きました。何がキツかったって寂しかったね。日本で学位研究をしていた時には家族を省みず、研究にのめり込んで、ほぼ毎日病棟の業務が終わってから慶應に行って夜中まで研究して、翌朝また病棟に行って研究して、という生活をしていたから、ふと気づくと家族と私との間に深い溝ができてしまっていました。でも留学して離れてみて、家族の大切さを身にしみて感じたのが僕の人生における大きな財産の一つです。家族がいるから頑張れるという当たり前のことに、改めて気づいた。その後、家族がワシントンDCに合流して、そこからは研究が進んだね。家族の大切さが身にしみていたからオンとオフをはっきりさせました。少し車でいけばナショナルパークがあるからピクニックに行ったり。仕事と家族が両立した期間だったかな。研究はキツかったけれど、家族の絆が深まったから充実した期間でした。だから、君らも絶対留学は行った方が良いと思うよ。今どんどんチャレンジする人が減ってきているけれど、住むのとvisitは全然違う。文化もそうだし、世界と戦える感覚が身につきます。

マインドセットが縁を引き寄せる

ー研究する中で「岡野先生とワシントンDCで会って培養を教えてもらった」というのを見たのですが...

 僕はね、なぜかわからないけどいつも厳しい状況になるんだよね。僕はNIHのMcKay先生とジョージタウン大学のBregman先生の共同研究プログラムとして留学しました。整形外科医だったからネズミの手術も上手くできるし、ラボミーティングであれやりたいこれやりたいって言っていたら、あるときからぱたっと締め出されました。McKay先生がベンチャーを作って、ベンチャーでやるからって僕が発表したことをほとんどそっちでやられてしまいました。僕は神経幹細胞学をやりにきたのに神経幹細胞の培養法すら教えてもらえない状況が続きました。でも無駄にはしたくなかったから、今自分ができることを粛々とやろうと思ったんだ。当然、移植医療の成否はホストの環境と細胞との相互作用で決まるから、損傷した脊髄の微小環境の変化についての研究をずっとやったね。けれどこのままじゃ自分がやりたかった細胞移植も何もできないと思っていたら、1999年の春に岡野先生がスペースシャトルの中でやる研究の査読でNASAに招聘されて、ワシントンDCにやって来ました。空港まで迎えに行って、途中のポトマック川の桜を見ながら岡野先生から、「どうですか、R.D. McKayとの研究は進んでますか?」って言われて、「実は厳しい状況で細胞も触らせてもらってないんです」って答えたら、「だったら僕のところに来なさいよ、培養の方法とか教えてあげる」と言ってくれました。

その後一時帰国して、大阪大学で1ヶ月間色々教えてもらって、そのノウハウを全て持って、NIHを出てジョージタウン大学で脊髄損傷に対する神経幹細胞移植の仕事を進めました。2000年の10月に帰国して、慶應大学に戻ったら、翌年の4月に岡野先生が大阪大学から慶應に生理学の教授として帰ってきました。そこでワシントンDCと大阪大学で離れ離れだったのに、慶應で合流できたというわけです。そこから20年間ずっと一緒にやっています。

ー岡野先生との交流を含めて人と関わる上で意識していることはありますか?

 中学3年生のときのドクター、ワシントンDCでの岡野先生、カナダでのiPS細胞の山中先生、みんな僕の人生を大きく変える出会いだったと思います。人生では人との出会いがすごく大事で、一生懸命頑張ってる人のところにはそういう縁がくる。漫然とだらだらやっている人の所には来ないのかな、わからないけれど。締め出されて苦しかった状況でも仕事をしっかりやっていて論文にしていた僕のことを岡野先生が評価してくれていたから、来なさいよって言ってくれた。つまり、一生懸命やっていればどんな苦境に立たされていても、必ず一つの光が見えてくると思います。苦しい状況に何度もなったけど、そのときに自分のpassionが消えないで頑張り続けていたら、必ず人との出会いやチャンスが来る。僕はたまたま運が良いのかもしれないけれど、運を引き寄せているのも、そんな諦めず一生懸命頑張る姿勢だと思う。だから心掛けているのはいかなる環境に置かれても、いかなる厳しい状況に置かれても、常に自分を見失わずに軸がブレずにやり抜く、頑張るということだと思います。

Passion, Vision, and Action

ー厳しい状況に置かれたときに自分をどうやって奮い立たせてきたのでしょうか?

 僕だって落ち込むことはあるけど、そういう状況になったときに、原点に帰ることかな。なぜ今僕はここにいるんだろう、なぜ僕は医者になったんだろう、なぜ僕は今この研究をやろうとしているんだろう、なぜ僕はアメリカまでわざわざきたんだろう。要するにそのときに自分が持っていたpassionやvisionに立ち返って、自分を見つめ直していたね。そうするといま何をしなくちゃいけないんだろうというactionを見失わなくなります。こんなところで腐っている場合じゃない、次に向かって何をしなくてはいけないんだ、自分が今何ができるんだ、というpositive thinkingに変わってくる。どんなに失敗しても、どんなに苦しい状況に置かれていても、人生で自分がやったことで無駄なことは一つもないと思います。一生懸命やった結果であれば、無駄なことは一つもない。常に自分がベストを尽くしていても、必ずしもうまく行かないことって人生でたくさんあるから、そのときにそれをnegativeに考えるんじゃなくて、無駄なことは一つもないからと思えるpositive thinkingが大事かな。

ー最後になりますが,これから目指しているものや描いているvisionがあったら教えていただきたいです。

 立場によっていくつかあるんだけど、個人としては脊髄損傷を治したい。僕のライフワークだからどこでどんな立場であっても続けると思います。整形外科の教授としては、慶應の整形を世界一の整形にしたいと思っています。医学部執行部の一員としては、産学連携・イノベーションを担当していますが、この分野で、慶應の医学部、さらには慶應義塾を世界に冠たる大学にしたい。10年後には慶應とStanford大学が肩を並べていよう、といつも言っています。これはあり得ないことではなくて、慶應はそのポテンシャルを十分持っていると思います。そのために何が足りないのか、強いところがあるのになぜ生かされていないのかもわかっているから、そこを変えたくて色々やっています。君らが医者としてバリバリ働く10年後には、慶應に入ってよかったと思えるようにしたいね。日本の医療を変えていく、世界でgame changeができる、そういう基盤を作って、次の慶應医学を担う世代の人たちがそこで活躍できたらいいなと思っています。